「1/10(模型)大和」の命名・進水式が無事終了し、誠にご同慶の至りであります。原「戦艦大和」の進水は、昭和15年8月8日、それから数えて63年6ヶ月にして、本日、処も同じここ呉で「1/10大和」の命名・進水を迎えました。私もこの進水に関わり感慨にふけております。ここに至るまでの呉市当局、山本造船株式会社をはじめ、関係された各位のご尽力に深甚の敬意と祝意を表するものです。
軍艦としての初代大和は、明治期日本海の大和堆を発見し、その名称の由来ともなった測量艦大和です。二代目が余りにも有名なこの戦艦大和で、海上自衛隊でも(金剛/霧島までは三代目を継ぐ護衛艦を建造していますが)未だ三代目としてこの光栄な名前を引き継ぐ名節を得る艦はありません。
今なぜ大和か? その性能要目・戦力・用兵的なことは語られていますので、呉の町の歴史とも一体となった建造の面からのお話を少ししたいと思います。
軍艦の建造は、重工業はもとより精密工業、電機・電子工業から光学、音響、化学工業に至るあらゆる分野の科学技術の粋を結集し、また、日常生活の場も含みインテグレイとされたシステムとして設計・建造されるもので極めて難しい大プロジェクト、これを造り出した国の国民性、経済力、技術力、文化、政治水準までも現すと言われます。
ロンドン軍縮条約の海軍戦備の制限枠が取り払われるのを期に、超巨大戦艦(しかも戦艦の建造は15年以上のブランクがあり、現場経験者もなし)が東洋一と言われた呉海軍工廠で建造されることになりました。それに先立つ昭和9年から中央で基本設計が実施され、1年前・6ヶ月前には『設計の牧野茂・現場の西島亮二』と評された気鋭の造船少佐が呉工廠造船部の設計主任・船穀主任に配置されました。以後、両造船官の強力なリーダーシップのもと世紀の大事業と呼ばれた大和建造が推進されました。(ちなみに、当時は1号艦と呼ばれ、2号艦武蔵は5ヵ月後民間の三菱長崎造船所で起工されました)
戦艦大和は、戦後、その巨大さをもって賛美されたり、逆に無用の長物視されたりしましたが、設計・工作両面の技術から言えば、その誇りはそれが「小さかった」こと、「短期間で(と言うことは、換言すれば安く)造った」ことにあります。
その建造法として、戦後の造船では当たり前になりましたが当時では革新的な、電気溶接の多用(延べ溶接長46万4千メートル)、ブロック組立建造や船体と艤装の工事を併行実施する先行(早期)艤装の本格導入等の工法を大胆に採用しました。また、特に西島造船官はこれらの工事を正確かつ能率よく(出戻り工事をなくし)進捗するため、作業場や機械の再配置による言わば流れ作業体制の整備や実物大木型模型による先行艤装の促進あるいは鋼材・金物・装置機器・部品等の制式・標準化及びその品質管理等の材料統制強化、更に工事のピークをなくし仕事の平準化を図ることが作業効率に繋がると発想した「西島カーブ」と呼ばれた工数(作業量、マン・アワー)統制、工程管理の導入など近代的な生産管理方式を開発し協力に推進しました。
一方、呉工廠の職員も「腕と技術は日本一」の自負を持って、よくこれに応えました。が、そもそも西島造船官をこのような技術者に育てた原点は呉工廠にあると私は思っています。昭和2年任官したての西島中尉の初勤務は、当時既に日本一の生産・技術組織であった呉工廠で、造船部に非公式ながら「優秀な艦艇を安価に短期間に建造するための研究会(玉沢造船部長、福田艤装主任、畑船穀主任等)」というものがあって、ここから出た新しい技術等の実験工廠の観もあり前述の建造方式も一部は試行的にあるいは部分的に実施されていました。西島造船官もここでの活動を通じて「自分の進むべき道は生産管理」と決意され現場主義を押し通されたそうです。
なにはともあれ、そうした西島造船官の生み出した画期的な生産管理法や建造法を大胆に取り入れ、優秀な技術を有する工廠職員が誇りをもってチャレンジし、熱と意気で応え、正に上下一体となって『心・短・頭・技』の全てを注ぎ込み完成させたのが大和です。しかも結果としても、船体建造に要した総工数は2号艦のほぼ1/2という能率で、また、予定より6ヶ月以上繰り上げて完成させました。(三菱重工、長崎の名誉のため申し添えますが、三菱や長崎が劣っていた訳ではなく、むしろ他の造船所では出来得ない高い技術水準を有していました。(だから2号艦。ドックでなく船台建造や熟練工不足の問題もあった)にもかかわらず、この差があったというのは、いかに呉工廠の建造方式が革新的であったかを示すものです)
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