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安芸二号便り66『早春の伊豆半島回り』 三浦の羊飼い


 早春の一日、飼主一家は近くの蘆花記念公園にある郷土資料館に行った。公園の駐車場から安芸を連れて小高い丘を登ったところに、古いが立派な門構えの木造平屋建て瓦ぶきの家屋がある。大正元年に建築された徳川家十六代家達の別荘で、今は逗子市の郷土博物館になっている。庭先に安芸を繋いで中に入ることにした。

 歴史・民族資料のほか、この地にゆかりのある文学者の作品などの資料が展示してある。明治の文豪徳富蘆花は、明治三十年から三年間この近くに住んでいたという。その時に、大山巌陸軍大将の副官の未亡人から聞いた話をヒントに、小説「不如帰(ほととぎす)」を書き、ベストセラーになった。その小説のヒロイン、浪子を記念する浪子不動の近くの海岸には、「不如帰」文学碑も建っている。

 蘆花は美文家だったらしく、丘に登る坂道の所々に「自然と人生」から引用した文章の立て札が立っている。たとえば、相模灘の落日と題して、「初め日の西に傾くや、富士を初め相豆の連山、煙のごとく薄し」といったもの。確かにその頃であれば、田越川の川原や畦道の田園風景のかなたに、丹沢や伊豆の山並を裳裾にした雄大な富士山を望めたに違いない。


 これに触発されたわけでもないが、相模湾を周回して翌日から伊豆半島まで足を伸ばした。安芸がお気に入りの河津桜を見物するための恒例の小旅行。このコースには文学的名所には事欠かない。「不如帰」に始まり、熱海では尾崎紅葉の「金色夜叉」、天城山では川端康成の「伊豆の踊り子」ゆかりの記念碑等がある。


 この旅で飼主は二つのミスをしてしまった。その一つは開花時期の誤判断。昨年は一週間早すぎたため、今年は慎重に昨年並みの開花時期と見積もり、約一ヶ月前に宿を予約した。ところが、今年は例年より開花が早くなり、河津桜の原木のある主会場付近の桜はすでに葉桜状態である。

 もう一つは日曜日しか宿がとれなかったので、名物料理の金目鯛の煮付けにありつけなかったこと。いつもの河津川沿道を避けて河津七滝まで登ると、幸にも渓流沿いにまだ花の残っている木々が散在している。シーズンの盛りを過ぎたとはいえ相当の人混み。安芸には桜も金目鯛も関係ないようで、嬉々として人ごみの中を平気で歩いていく。時々通行人に声をかけられたり、触れられたり、写真を撮られてもおとなしく飼主に服従している。


 天城トンネルを通って伊豆半島の中央部を北上、今は伊豆市になっている旧戸田(へだ)村に着いた。江戸時代から漁業と海運業で栄えた港町で、西方の海側は御浜岬という自然の防波堤と三方を険しい山で囲まれ、天然の良港をなしている。日本海溝の先端が入り込む駿河湾は、深さが二千五百メーターもあり多くの深海生物が生息している。古くから深海漁が盛んで、今もタカアシガニは戸田の代名詞になっている。


 ペリー提督の黒船が下田を去って四ヶ月後の一八五四年十月、ロシアのプチャーチン提督がディアナ号で下田にやって来た。十一月四日、安静の大地震が東海地方を襲い、その津波によって下田港に停泊中の乗艦ディアナ号は船底と舵を大破。修理のため戸田港に回航中、強風のため難破、駿河湾に沈んでしまったが、約五百名の乗組員は地元民に救助され全員無事に上陸することが出来た。

 プチャーチン一行は、戸田でロシアに帰るための代船を造ることになり、ロシアの技術者と日本の船大工が苦労をしながらわずか三ヶ月で約百トンの帆船を造り上げ、これが日本で作られた初めての本格的な洋式帆船となる。この船は戸田住民への感謝をこめてプチャーチンによって「ヘダ号」と命名され、その年同タイプの船が更に六隻建造され、幕府によって佐渡や函館に配備された。

 ヘダ号建造にかかわった船大工たちは、各藩に招かれ造船技術の普及と指導に当たり、そのうちの一人、上田寅吉はその後長崎伝習所に学び、オランダ留学を果たして新政府では横須賀造船所の初代職長となり、日本海軍初期の軍艦を建造している。


 プチャーチン死後の明治二十年、娘のオリガ・プチャーチナが来日し、父が世話になった関係者に記念品を贈り、謝意を述べた。その彼女も三年後に亡くなり、遺言として百ルーブルが戸田村に贈られた。戸田村ではその遺志を尊重し窮民救済寄金にあて、その後続く長い日露友好のシンボルとなる。


 以上を物語る資料が、御浜岬の造船郷土博物館に展示されている。プチャーチンの名前以外は殆ど無知だった飼主は、この小さな港町が日本の近代造船発祥の地であることを知り驚いたが、この小旅行の大きな収穫となった。カミサンに強要され、戸田来訪記念としてかなり値の張るタカアシガニ定食を食べ、戸田人の勇気と友情の証という地元製のロシア菓子「ディアナ号の錨」を土産に買う。安芸は、直ぐそばの岸壁に駐車した車内の犬舎から食事中の飼主夫婦を見つけ、盛んに抗議の鳴き声を出した。

 戸田は、多い時人口三千人を越えたというが、今はひっそりとした歴史の重みを感じさせる佇まいの港町である。(第66回了)


                           三浦の羊飼い


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安芸二号便り67『桜と弾道ミサイル』 三浦の羊飼い


 今年も桜の季節がやって来た。例年この時期になると桜の開花時期が日本人の一大関心事となる。今年の桜は当初いつもよりは早咲きと予想されたが、気温の低い日が続いたせいで結局例年並かやや遅れ気味となった。

 安芸の散歩コースにある桜並木も、開花してから満開まで今年は一週間以上かかったが、なかなか散り始めない。穏やかな日和が続き恒例の雨風による春の嵐が来ないからだ。安芸と一緒に毎日通る、昔、製塩地金沢の六浦から鎌倉まで塩の行商人が通ったという狭い切通しの沿道にある光触寺。

 「塩なめ地蔵」で有名なこの寺の門前にある古木の桜も、見事に咲いているが一向に散る気配がない。桜は散ってこそ、桜。なかなか散らない桜だなと思いつつ、ある朝傍を通ると風もないのに花びらがはらはらと舞っている。俗に言う花吹雪とはこのことかとしばらく見とれていたが、夕方にはもう殆ど散り終えていた。


 季節の変化が顕著な気候で育った日本人は、花鳥風月に対する感受性が強く、なかでも桜の花には特別な思いがある。数学者の藤原正彦氏は、お茶の水女子大学の退官講演で、日本人は世界的に見ても美的感受性が著しく優れた民族で、文学、芸術、数学、理論物理などで日本が大きな貢献をしてきたのは、美的感受性こそがお家芸だからであり、モノ作り大国として世界を圧倒してきたのもこの賜物だと言っている。


 毎年この時期、自衛隊の部隊も全国各地で観桜会や基地開放等を催し、一般市民との交流親睦を図っているが、今年だけは特別のものとなったに違いない。「北の将軍様」による人工衛星名目の弾道ミサイル発射予告に対応するための態勢をとったからだ。佐世保と呉は告示期間を外れ、かつ開花のタイミングも最高だったが、舞鶴の観桜会はその初日にぶつかってしまい、結局二週間延期される。そのおかげで毎週末の安芸の訓練に飼主が参加することが出来たので、この変更は有難かったのだが....。

 政府は、国民には平常どおりの生活を要求する一方、ミサイルが日本の領土、領海に落下する事態に備えて弾道ミサイル防衛(BMD)システムによる迎撃を決定。自衛隊法の規定に基づき弾道ミサイル等に対する破壊措置命令が発出され、海上自衛隊のイージス艦や航空自衛隊のPAC−3部隊が展開した。

 この命令は、平成十七年の法改正により新たに自衛隊法に追加されたものであるが、今回初めて発動。防衛大臣があらかじめBMD統合任務部隊指揮官に対し、内閣総理大臣の承認を得た緊急対処要領に従い破壊措置の実施を命令したもの。この緊急対処要領において、防衛省は関係行政機関等に対し弾道ミサイル等の飛来を確認した場合、その旨と弾道ミサイル等の落下予測地域及び時刻を伝達することとされている。


 北の告示期間の初日、防衛省内部での手違いにより発射情報が誤報されるという混乱はあったが、二日目本番のミサイル発射に際してはスムースに伝達された。発射関連の情報は大きな混乱もなく、数分以内に官邸からエムネットで各自治体、報道機関へ、さらに一般国民へと伝達された。飛翔体は東北上空を通過し日本海と太平洋に落下したため自衛隊による破壊措置は行われなかった。全国的に陽気に恵まれた日曜の正午近くのことで、花見を楽しんでいた国民も多く、政府声明やマスコミ論調とは奇妙なギャップを感じさせた一日であった。

 初日の誤報事案は、大臣も陳謝したとおり防衛省の全く初歩的なミスであるが、軍事のプロ組織としては許されないことで、大きく国民の不安、不信を駆り立てた。しかし、未完成ではあるものの、過去数年巨額の予算をつぎ込んできたBMDシステムの探知追尾機能については有効性を一応検証できたようだ。

 そもそも、「第一報に誤報あり」は危機管理の世界ではよく言われる教訓であり、ましてこれまで訓練も検証もされていない国家レベルの危機管理分野でのこと。今回の弾道ミサイル対応は、本来ならば毎年九月に実施している総合防災訓練のように、国・自治体を挙げて訓練すべきものであり、その意味で誤報事案は政府、自治体、報道機関等を含めての総合リハーサルとして格好のものとなった。そのお陰か、現にマスコミも本番の時は冷静に対応出来たという。政府、各自治体は、今回のミサイル発射事案を奇貨として、有事の国民保護体制整備を推進できることを将軍様に感謝すべきであろう。


 折しも弾道ミサイル発射事案の翌日、イタリア中部で強い地震があり中世の街並みが廃墟と化し、死者約三百名という被害が出た。伊首相は予定していた外訪を急遽中止し、国家非常事態を宣言、直ちに現地入りしたとの事。世界中のメディアは救助犬を帯同した災害救助部隊について盛んに報道した。飼主のNPO法人もオーストリアや韓国の仲間と情報交換すると、伊国内の救助犬は出動しているが、欧米諸国、日本にも具体的な援助要請は来ていないという。天災と駄々っ子将軍様による人災に対する危機管理、教訓の多い一週間が過ぎると、国民の関心は専ら総額五十七兆円に上る経済危機対策へ。是非日本人の美的感受性による底力を発揮して、この未曾有の危機を乗り切ってもらいたいもの。

 関東各地の桜も散り終え、四月下旬の長野県富士見高原での国際救助犬試験に備え、安芸と飼主の訓練もようやく佳境に入って来た。(第67回了)

                         三浦羊飼い


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安芸二号便り完結編『天命か−救助犬安芸二号逝く』 三浦の羊飼い


 平成二十一年四月十六日、安芸二号運命の日。前日夕方遅めの散歩と食事の後二時間ほどして安芸が突然嘔吐した。その前後であろうか、安芸の数回の吠え声に異常を感じた飼主は、庭に下りて様子を見に行く。安芸はいつもと変わらず、過去に病歴のある胃捻転も起こしていない。その夜はやや暑かったが、いつものとは何か違うものを感じ、直ぐ訓練士に連絡を取り動物病院を手配してもらった。迎えに来た訓練士の車に乗る際安芸は一瞬嫌がったが、自力でケージに飛び乗る。この夜カミサンは不在だったが、この安芸の仕草は全くいつもの訓練に行くときと同じ。

 訓練士の車は、高速道を経由して三十分足らずで横須賀の川畑動物病院に着いた。深夜にもかかわらず、当直の獣医のほか院長も出て来て診察してくれる。院長とは、昨年犬の救急処置法セミナーを受け顔見知りの仲。検温、X
線撮影、血液検査、点滴と手際よく検診、処置が行われ、体温、血液検査は正常、心臓が収縮しショック状態、軽い脱水症状を起こしており要安静と診断された。

 腸に少しガスが溜まっているが胃、肝臓は正常で毒物を食べた症状ではないという。ただ、いつもX線撮影や採血を嫌がる安芸が今回は大人しくしているのが気になった。全身で息をしている安芸は、苦しいのか時々寝返りを打ち、飼主と訓練士はそのたびに点滴の管を正常に戻してやる。それでも二時間ほどすると、元気になり起き上がろうとした。飼主と訓練士は、この様子では一、二日休養すれば週末の富士見高原での事前訓練には予定通り行けそうだと語り合った。


 午前三時頃、再度の血液検査結果、点滴にもかかわらず血小板の数値が低下していると言う。しばらくして、安芸は院長の恐れたとおり下血した。それまでの一時的な回復振りからは到底信じられなかったが、最悪の事態を考え訓練士にカミサンを連れに行ってもらう。小一時間して病院にやって来た彼女はただ呆然としていたが、間もなく今度は大量に喀血した安芸を見て事態をやっと把握し、飼主は安芸の死を予感した。

 訓練士に仮眠をとってもらい、二人で一畳ぐらいの犬舎で安芸に付き添う。飼主がトイレに立った時、安芸は突然起き上がり、追いかけようとして激しく下血した。カミサンが必死になって抑えている。二人は安芸を抱え上げ、血だらけのバスタオルをきれいな物と交換してやった。安芸は明け方まで下血と喀血を繰り返し、その間隔は徐々に短くなる。日出後、小康状態になったので訓練士とカミサンをとりあえず帰宅させた。

 薄暗い犬舎は安芸と飼主だけになったが、そうしたかったのかもしれない。飼主はもう院長を呼びに行かなかったが、明け方一度診察して全てを悟った院長も顔を出さなくなった。最期に一度、安芸は力を振り絞って激しく吐こうとしたが、もはや血も出ない。飼主が顔や首の周りを撫でてやっていると、しばらくして静かに息を引き取った。眼はうつろに飼主を見つめたまま…。午前八時五十分、行年七歳三ヵ月。飼主は手のひらで静かに両目を閉じてやり、それから奥の部屋に院長を呼びに行った。


 安芸専用車で迎えに来たカミサンはきれいに清められた安芸の遺体に取りすがり、一緒に自宅に連れ戻らなかったことを後悔した。外に出ると快晴で太陽がまぶしい。伸びきった安芸の手足は車内のケージには収まりきらず、カミサンの膝の上に頭を乗せて後部座席に横たえた。僅か半日足らず、長年乗りなれた車で前夜と同じ道を通り、安芸は変わり果てた姿で帰宅した。

 すぐ訓練士、安芸を可愛がった親戚の者や隣の奥さん、しばらくして飼主の友人が報せを聞いてやって来た。遺体を居間の床に安置し、座卓と真新しいシーツで祭壇を作り、出動用給水袋に水を入れ、玉野のO氏から貰った安芸の写真パネルと備前焼の肖像、救助犬ハーネス等を飾る。夜になると、NPOの犬仲間が三々五々集まって来て総勢十人ぐらいになった。

 沢山の生花に囲まれ横たわっている安芸の体はまだぬくもりがあり、声を掛ければ今にも起きて来そう。殆ど女性の弔問客は一様に安芸の急逝を悼み、その短くも中身の濃かった一生が話題となり結構にぎやかな通夜となったが、飼主と友人のたった二人の男たちは黙々と酒を飲むしか術がない。その夜、飼主は安芸の横たわっている居間に寝た。この部屋で一緒に寝泊りするのは、一昨年夏の胃捻転手術以来二度目。


 翌朝いつもの時間に眼が覚めたが、やはり横たわる安芸の姿は昨夜と変わず、今日から散歩の相棒がいないことを改めて認識する。親戚の病院が手配してくれた人間用の霊柩車が自宅を出る頃、安芸の散歩仲間の犬たちとその飼主が二、三見送りに来た。通いなれた訓練所の途中にある犬猫専用の霊園で荼毘に付した。

 この日は肌寒く、火葬が終わるのを待機室で茶ばかり飲んで待つ。飼主夫婦は、人間と変わらないくらい大きな壷に安芸の骨を丁寧に拾って入れた。やがて自宅に還った遺骨を日本間に作った大き目の祭壇の中央に安置する。これらが一段落すると、二日間ほとんど寝ていない飼主は大きな疲労感に襲われた。


 ジャーマンシェパード犬の「HannaVonJieitaikure」、通称「安芸二号」は平成十四年一月九日の寒い夜、広島県呉市吉浦町乙廻の犬舎で父親ゴン、母親メッシュの子として生を受けた。警備犬の定数オーバー等の事情で保健所に引き取られる寸前、偶々退官して自宅に戻る飼主が里親となる。こうして飼主の第二の人生のスタートとともに、安芸はその不即不離のパートナーとなった。

 生後六ヶ月ぐらいから大型犬としての躾けや社会性の訓練を、三歳から救助犬安芸、ハンドラー飼主のコンビとしての本格的な訓練を始め、受験五回目で国際救助犬試験の瓦礫捜索B段階(上級)に合格、同時に世界選手権の出場資格を得た。国際救助犬連盟(IRO)の試験規定を適用するこの試験はかなり厳しいもので、平均合格率は二十%以下。安芸が五歳になった平成十九年六月、オーストリアの古都アイゼンシュタッドで行われたIRO国際救助犬世界選手権に参加して瓦礫捜索部門で合格し、捜索能力は国際レベルにあることを確認することができた。

 ところが、その夏箱根で自衛隊ヘリの搭乗訓練を実施した夜、安芸は食後突然胃捻転になり、二回の手術を経て九死に一生を得る。それでも、翌平成二十年には神奈川県警の嘱託災害救助犬に選ばれ、一年間出動態勢を維持し、警察、自衛隊、消防との帯同訓練に参加して捜索練度の向上に努めた。そのハイライトが宮城県への災害出動と韓国におけるIRO出動チームテスト
(MRT)

 六月十三日、岩手・宮城内陸を襲った震度六強の地震は典型的な山間部型地震であったが、安芸は災害救助犬として初めて出動し、被災者の捜索に当たった。

 一日目は国道上部の崖崩落現場で未確認車両が巻き込まれているという情報。現場に着くと、余震による二次災害を警戒して警察、自衛隊約百名の隊員が立ち往生していた。六十度近い傾斜の現場に犬だけを投入することになり、安芸は仲間と一緒に一時間半捜索に従事する。結局災害救助犬の反応がないことで、この現場の捜索は打ち切られて部隊は撤収した。

 翌日の任務は、駒の湯温泉の土石流による旅館倒壊現場。犬も人も泥に浸かりながらの捜索となったが、行方不明者の発見には直接寄与できなかった。しかし、災害救助犬の本格的な現場投入がテレビ、新聞等で広く報道され、正味二日間の出動だったが、初めての実動任務で救助犬の能力とその限界を体験したのは大きな収穫となる。

 九月には、その集大成というべき出動チーム試験が、アジア地区で初めて韓国で行われた。安芸と飼主は、この国際捜索救助諮問グループ
(INSARAG)認定の試験にNPO仲間と一緒に挑戦。五日間、韓国山中で犬と一緒に野営をしながら、三十六時間昼夜連続の実任務試験に参加した。

 この期間中延べ七ヶ所の災害現場における捜索能力、犬と一緒の高所からの降下作業、人や犬の救急法実技、基本知識の筆記試験が予告なく行われる。捜索作業は実際の災害現場を想定した過酷なもので、安芸は十四人中十一名を発見告知したが、合格できなかった。しかし、六歳という救助犬の円熟期に当るこの年は、安芸の一生の中でも最も充実し輝いていた一年間だった。


 安芸の急死から一週間後に恒例の国際救助犬試験が始まった。気の進まないカミサンを強引に連れ出し、一日遅れて長野県富士見高原へ行く。今回はエントリー犬五十頭という過去最大規模で審査員もドイツ、チェコ、韓国からと国際色豊か。がれき捜索会場も約一週間掛けて入念に整備され世界選手権並みの難易度の高い設定。四日間のうち二日は荒天となったが試験はほぼ計画通り行われた。

 予想通り合格犬は例年より少なく、がれき捜索A段階
(中級)二頭、B段階(上級)三頭のみの厳しい結果となる。このうち、理事長のエロス号と安芸と同じ訓練士のピーチ号が得点率九十%以上で、ルーマニアでの世界選手権出場資格を得た。特にピーチ号の捜索は素晴らしく、僅か十数分で四名の要救助者全員を発見した。まるで安芸の霊が乗り移ったような見事な捜索で、思い出すから見たくないと言っていたカミサンも来て良かったと大喜び。訓練士の話だと、安芸は死ぬ前日の訓練で雨中のがれき捜索を行い、非常に良い作業をしたとのこと。安芸の同僚犬の活躍ぶりを見て、飼主夫婦は喪失感を新たにしたが、顔なじみの審査員や犬仲間たちからのお悔やみと励ましの言葉で慰められた。

 富士見高原を後にして例年立ち寄る伊那で一泊し、新潟県に入り妙高市、上越市に泊まり「天地人」ゆかりの地を訪れる。もともと安芸と一緒に行く計画であったが、上杉謙信の居城春日山城、影虎最後の鮫ヶ尾城、直江兼続の故郷坂戸城をはじめ多くの古城を見学し、印象的な慰安旅行になった。

安芸の死を吉浦に連絡すると意外な報せが返ってきた。


兄弟犬松之助号が半月前に急死したという。朝犬舎において下血し、ぐったりしているところを発見され、動物病院に搬送中息を引き取ったとのこと。死因は、特発性腸炎によるショック死。安芸と同様前日までは、死に至る兆候もなく食欲もあり元気に訓練をしていたという。吉浦にはこの三年間、警備犬との合同訓練でNPOの仲間と一緒に訪問しているが、昨年も安芸と松之助は元気でこの訓練に参加した。

 安芸の両親は長命だが、子供六頭のうち存命中は二頭のみでシェパードの寿命としてはあまりにも短命。これも安芸の天命なのか。カミサンは最後の夜外出して不在だったことが死因であるかのように自分を責めた。最期まで看取った飼主には後悔はなかったが、思わず海軍のある先輩が言っていた言葉を思い出した。

 数度の海戦を経て九死に一生を得た彼は生前、「『人事を尽くして天命を待つ』というけれど、私は、それは人間の増長であると思っています。天命というものが先ず先にあって、『天命を待って人事を尽くす』のが本当ではないか、これが、戦いを通じての実感です」と言っていた。夜戦で砲弾の破片を浴び重傷を負いながら戦後六十一年を生き抜いたその人も、三年前風邪をこじらせあっけなく逝ってしまった。


 短かった安芸の一生をどう観るか。「近所の犬とはよく問題を起こしたが災害救助犬としてはきわめて優秀」、「最期まで訓練、訓練で酷使されてかわいそう」、「短いが充実した悔いのない一生」・・・このような評価自体人間のエゴかも知れない。しかし、確信を持って飼主の第二の人生の良き相棒であったことは間違いないと言える。(完結編 了)

                               三浦の羊飼い


あとがき


 「クラス諸兄五年半もの長い間「安芸二号便り」をご愛読いただき有難うございました。

ここに、完結号をもって筆を折ることをご報告申し上げます。

 安芸の死去に際しまして、多くの方から哀悼と激励のお言葉をいただきましたが、この場をお借りして心からお礼申し上げます。

 子供のいない我々に安芸号の急逝はかつてない喪失感を抱かせましたが、先週三毛猫の「咲(さき)」をカミサンの新たなパートナーとして迎え、49日を過ぎてから生後二ヶ月の甲斐犬を飼主の相棒として山梨県塩山に迎えに行く予定です。


 海自ではありませんが、飼主一家も抜本的改革の下新メンバーで再出発の運びとなりましたのでご放念下さい。


                                三浦の羊飼い


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