近況レポート
   

近況レポート目次

次ページ

心臓手術顛末記 松ちゃん(呉) (H15.10.25)


 娘の結婚(2001/06)・初孫の誕生(2002/08)・息子の結婚(2003/03)と、人並みの親の責任を果たし、4月無事還暦を迎えてヤレヤレと安堵した私だったのですが・・。

 6月の初め、夕食後ウォーキングをすると、息切れが激しく何時もと違うので、受診したところ、即検査入院(国立呉病院・2週間)となりました。数多くの検査の結果、心臓に孔があいているとのことで、7月14日心臓手術となりました。8月4日退院し現在馴らし運転で遅出の早退と重役出勤をしています。手術後3ケ月も経ち随分楽になりましたが、おそるおそる(女房)の毎日でした。胸部を切開しているので、胸骨が引っ付くまで6ケ月かかるそうです。従ってゴルフは来春までお預けです。

 医者が言うには、左心房と右心房との間の壁に孔があいており、肺から戻ってきた酸性化された血液が左心房から右心房に漏れている。従って右心房は全身から還ってきた血液と、左心房から漏れた血液とを併せて、肺に送り込んでいる。その結果、右心房がオーバーワークとなり肥大し、心不全をおこしている。(肺に酸性化された血液が送り込まれると、肺にも良くないらしい) 

 またこの孔は先天性のものだとのたまう(・・・・)。本来あかちゃんが、母親のおなかの中にいる時は、心臓は一つらしい。「オギャー!」と生まれて肺呼吸する時に真中の壁が引っ付いて、左右に分かれるらしい。この時、壁が重なって付いたり、不完全に引っ付いたりして孔が出来たりするそうだ。現在では小児科で見つけ1−2歳児で手術をするそうです。

診断結果は心房中隔欠損症・三尖弁開鎮不全症・心房細動と云うたいそうな病名をつけられ、胸部を切開して@心房中隔欠損根治術・A三尖弁形成術・B心房細動根治術の手術を行いました。

 @とAは同じ個所を切るが、Bはまた別の個所を切るので、医長並びに担当医は最後まで三箇所の手術をするのに悩んだ。心臓手術をする場合、心臓を止めて人工心臓でこの間対処するのだが、この人工心臓は最大3時間しか、使うことができない。だから計画段階では2時間が限度らしい。@とAは同時にできるがBについては、やったほうがいいのか、止めたほうがいいのか手術当日朝まで、結論が出なかった。数日前手術説明が医師団からあり、私はせっかく胸を開くのだから、この際何もかもやって欲しい。また後日胸を開くのは嫌だと言っていた。医長はBまで手術するのは、時間的に・体力的(患者)にまた手術の進捗状況で難しいかもしれない。計画書が作れない。と言っていた。体力のない患者には、Bまではやらないそうである。

 手術当日の朝、担当医が再度私に問うた「Bまでしましょうか、@Aで止めましょうか?」「手術中あなたに問うことが出来ないので、今一度確認します」私は「Bまでやって欲しい、胸を開いてみて結論を出してほしい。胸を開いてみて、やったほうがいいのなら、やって欲しい。やらなくてもいいと判断されたら、止めたら良い。また手術の経過をみて時間的・技術的に難しいと判断されるのなら、@Aで蓋をして下さい。どちらになっても、私は意義を申し立てしません。総て医師団にお任せします。その結果が上手く行こうと、上手く行かなくとも、運命として受け入れます。私は医師団の結論に従います」と医師団に下駄を預けた。

 7月1日(手術の2週間前)に400cc。7日(手術の1週間前)に400cc計800ccの自己血を貯血して手術に臨みました。

 手術は14日9時前から始まりました。15時半手術が終わり、麻酔から目覚めたのは17時35分だった。医長より手術経過が説明された。「手術は成功です。3ケ所の手術を行いました。右心も切りました。成功です。輸血は行いませんでした。無輸血手術です」「どこか痛い所はありますか?」右乳首の中央寄り下方が痛いので指差すと、左手首の点滴用チュウブより痛み止めを注射してくれた。痛みがなくなった訳ではないが、痛みが和らいだような気がした。ふと左手首の点滴パックを見上げると、横に自己血(2パック=800cc)がぶら下っていた。(この血液は夜中に点滴チュウブより私の体に戻してくれた)

 手術前の担当医の説明や、麻酔医の説明では、麻酔から目覚めるのは翌朝と聞かされていた。目覚めた時、時計を見上げたら、針は5時35分を指していた。私は翌朝0535だと思い込んでいた。少し目覚めるのが早かったかな?と思ったりもした。7時半ごろより、人工呼吸器等々の諸装置が順次外されていったのだが、どうも夜が明けて朝になって行く気配が感じられなかった。ICUには窓がなく外界の様子がわらない。看護婦に「今は朝か?夜か?」と聞くのだけれど、上手く伝わらないのか、彼女がとぼけているのか、教えてもらえなかった。

 手術当日の0840に病棟で安定剤(睡眠薬)を飲んでICUに降りたのだが、手術台の上に横になり、麻酔の点滴用注射針を打つ為に左手首を看護婦にあずけたところで眠ってしまった。だから注射針を刺されたことも知らない。従って麻酔薬がどれほど打たれたのか知らない。麻酔医の事前説明では、2−3パック使い、目覚めは翌朝と教えられていたのだが・・

 後日、その麻酔医と廊下で出会った時に痛み止めの話から、手術当日の話になり、「松本さんは、麻酔がよく効きますネー。メスを入れられても、ビタット動かなかった。麻酔されていても痛がる人には痛み止めを打つことが多いのですが、あなたは痛み止めナシで手術を行ったようです。いつ痛み止めを?」「麻酔から目覚めたあと、痛いところはないか?と聞かれたので、そのあと、痛み止めを注射したくれた」

 麻酔からの目覚めが早かったのは、麻酔がよく効くので、麻酔薬量が少なかった為だろう。また手術中、死んだように動かなかったので、執刀医のメスの手元が狂うことなく、Bまでの手術が手際よくできたのだろう。では俺は麻酔がよく効く、痛みに鈍い下等動物か?

 翌日昼食より普通食が支給された。起き上がれなくて、両腕が自由にならない私に、担当の若い看護婦がスプーンで食事介護をしてくれた。なんとも云えないおもがゆさを感じつつ、ついつい鼻の下を伸ばしてしまった。ICUには患者2人に1人の看護婦がつくのだが、この日のICUには、たまたま患者数が少なく、私専用の看護婦がついていた。勿論彼女たちは3交代で入れ替わるのだが・・手術直後の夜中に付いてくれた看護婦は可愛くて、身体も腕も動かすことが出来ないでいる私の枕もとで、一晩中なにかと面倒を見てくれていた。私にはペースメーカーが装着されていて、うとうと眠りこけ、呼吸のタイミングが遅れると、顎下の警報器が「ピィー」と鳴る。彼女は「息を吸って!息を吸って!呼吸して!」と声を掛けてくれる。「水を!」「氷を!」と私の要求に答えて口に含ませてくれる。私には24時間で300ccの飲水制限があったので、彼女はその度に記録していた。若くて美人の女神のように見えた。うろ覚えの顔でもあり、再度顔を確認して彼女に、その時のお礼を言いたいのだが、勤務の都合だろう、私がICUにいる間が短いせいもあるが、その後会えないでいる。この一晩は麻酔でぐっすり眠れるはずであったが、目覚めが早かったお陰で、一晩中この呼吸警報器と1時間おきに自動計測される血圧計(モーター音+右上腕部が締め付けられる)でまんじリとしない一晩を送った。

 手術翌日の午後、医長が回復力の速さに舌を巻いていた。「さすがラグビーをやっていただけのことはありますネー。すごい体力ですネー」と・・。でもこれは麻酔がよく効いた為トラブルなく手術が進行したことと、麻酔量が少なく済んだので目覚めが早く、諸装置取外しが思ったより早くて、身体のダメージが少なかったからだろうと思われる。(素人判断かも?)

 予想以上に回復が進んで、医師団は難しい手術をやりこなして、患者の回復も予想以上に早いので、満面の笑みを浮かべていた。

 ところが術後1週間目の22日の11時半頃に脈とび(心停止:7秒)が発生した。ぼちぼち昼飯だなぁーと椅子に座りテレビを見るともなしに見ていたら、「ゴォー」と両耳の奥から、ジェット機の飛んでくるような音が連続的に聞こえた。この音はなんだろうか?段々その音は大きくなってくる。耳鳴り?なんだろう?なんだろう?と自問するが・・・、「アッ!」これは立ち眩みでは?と思った瞬間「ドンー」と心臓が鳴って(そのような気がした)、心臓から熱い血液が全身に駆け巡った。足先の爪や手先の指の先にまで、熱い血が巡った。丁度カテーテル検査で最後に挿入菅の先から、造影剤を心臓に打つのだが、その時の状況に似ていた。

 まもなく看護婦が部屋に飛び込んで来た「松本さん!どうしました!」「なにがありましたか?」「なにをしていましたか?」矢継ぎ早に問い掛けられた。「椅子に座っていたら、立ち眩みがあって、ベットに横になった」と答えた。私の身体には、ポータブルの心電図送信器が装着されていて、看護婦の詰め所のモニターで24時間監視されている。そのモニターを見た看護婦が飛び込んできたのだろう。

 正午に担当医が来て「脈とび(心停止)7秒間がありました」「手術のあと、こう云うことは多々あります」とポータブルペースメーカーを装着された。このペースメーカーは、鳩尾下部に埋め込まれているリード線に結線され、1.5秒にセットされた。(1.5秒間に脈が打たなかったら、機械で強制的に打たせる)

 医師団の落胆振りは、当事者である私には申し訳なく思えた。ボデイーと足回りがしっかりしている私は見た目には元気そうに見えていた。体力的な回復は早かっても、心臓内部の回復は人並みと云うところか?

 そうして、術後2周間目の28日にはペースメーカー用のリード線も引き抜かれて、術後3週間目の8月4日予定より少し早めの退院の運びとなった。

 医師から先天性の欠陥と聞かされ、60歳になる今日まで、激しいラグビーをし、過激な勤務生活を送ってきた時に不具合が出なかったのは何故?元気な私が今ごろになって何故?と云う疑問が残った。でも還暦とはこう云うものかもしれない。1週目をゴールし、エンジンのオーバーホールを済ませて、どこまで走り続けられるかわからぬ2周目のスタートをきれたわけである。

 盲腸の手術をする程度の軽い気持ちで、臨んだ心臓手術であったが、手術自体は麻酔で眠らされているので、痛くも痒くもなかったが、術後は結構大変であった。術後の辛さもその時その時は、さだめと思い耐えることが出来たが、回復が進み少しづつ楽になってくると、不自由さ・辛さもよく耐えたものだと思う。

 女房を初め、医師団・看護婦・心配してくださった多くの方々に感謝を申し上げ、心臓手術の顛末記の筆をおきます。 

 「ありがとう!女房殿!」



                                      呉・松ちゃん

  目次へ  TOPへ

医師と検査  松ちゃん(呉)  (H15.11.20)

呉国立病院





呉国立病院

1.循環器科:6月、循環器科を受診し、2週間の検査入院となった。

(1)医師:医長以下6〜7名+α
    (若い医師が多く員数内か外数か不明)

(2)検査:

  • 「心電図」: 技師が実施。医師はその写真やデーターの分析。

  • 「胸部X線写真」:     〃

  • 「腹部超音波検査」:    〃

  • 「心エコー」:胸部外側より数人の医師が代わる代わる実施。右心の肥大化を確認。

  • 「頸食道心エコー」:喉から胃カメラのように食道中にエコー器具を呑み込む。胃の入口付近で心臓の裏側にエコーを当てる。表から見つけられなかった不具合個所を裏から見つける。医師はテレビモニターを見ながら、エコーを操作する。6〜7人の医師が「オレも」「オレも」と交代で実施。参考書&ノート片手に見学する女医の研修生もいた。

      私の場合「心エコー」で見つけられなかった「心房中隔欠損」をこの検査で見つける。当日、朝食抜きで臨むが、器具を喉から呑み込む際「ウエッー」「ウエッー」と、器具を排出させようと、身体が反応する。医師は3人掛かりで押し込む。不覚にもよだれと涙で顔がグショグショになる。この後、昨日実施した「心エコー」を再度実施して、表からの確認をしていた。この検査は医師が実施し、技師は機器整備と準備のみか?
  • 「心臓カテーテル」:1階処置室で実施。局部麻酔をし、右足付け根より動脈・静脈にカテーテルを挿入する。循環器科医師と処置室付医師・技師・看護師含め総勢10名弱で実施。ここではチームプレーが大切。カテーテル挿入は担当医師。血圧等監視モニターを見る者。ガラス張りの別室で、カテーテルのカメラで映し出されるモニターを見るもの。モニター写真をコンピーターに記録する者。血液流量を測定する者、ストップウオッチで時間を読み上げ、単位時間を測定する者。それらを記録する者。造影剤挿入する者。写真を撮る者(レントゲン技師か?)

  • 止血(カテーテル終了後):若い医師が実施。親指・人差し指で動脈・静脈を押さえ込む。静脈10分。動脈30分。その後止血棒を当て止血ベルト、強力粘着テープで固定。3時間後止血ベルト取り外し。6時間後座位可。翌朝粘着テープの取外し、消毒、歩行可。24時間尿量測定(造影剤体外排出の為。2Lオーバーで測定解除)

  • 「MRI」:医師立会いの元、技師が実施。

  • 「その他」:採血・尿・便

2.心臓血管外科:手術施行に当たり、循環器科から心臓血管外科に移る。




(1)医師:医長以下4名(写真の医師団)


(2)検査:

  • 「貯血」:400ccを2回貯血。血液は医師が管理するのか、看護師に渡さず、医師が持ち帰る。

医師団


  • 「MRI」:担当医の立会い、指示(注文)で技師が実施。心房中隔欠損だけではなく、心室の壁孔明きの疑いで、2回目を実施。→→→心室の壁孔明きの有無を確認できず。→→→再度カテーテルで確認の要あり。

  • 「心臓カテーテル」:2回目を実施。心臓血管外科医の元実施するが、循環器科の医長以下医師数名が立会い。→→→心室の壁に孔がないことを確認。

  • 「頸動脈エコー」:技師が実姉。医師は写真・データーの分析診断。

  • 「頭部・頸部MRI]:     〃       

  • 「手術」:心臓手術顛末記に記載。

  • 手術法

    @担当医談:「心房壁孔明きのパチ当ての材料は?」の私の問いに「心臓外側の皮を切り取って、孔にパチあてをする」とのこと。手術前の事で、それ以上は怖くて聞けなかった。


    A手術経験者談:手術2日前、外来で
    年前手術した日新OBが教えてくれる。胸の中央をメスで切り、電動丸ノコで胸骨を下から上えと切開する。鎖骨中央を支点にして、ジャッキで胸骨を左右に広げて心臓手術をする。だから、手術後は鎖骨中央がとても痛いとの事。聞くのではなかったと思った。医師には確認できずにいる。(怖いから)

    B看護婦談:「心房細動根治術で右心を切ったとは、どこを切ったのか?」私の問いに
    「肥大している心臓の外側の筋切りをする」と答える。「それでは、イカの照り焼きと同じか?」と聞くと「同じようなものだ!」と答える。

    「切開した胸骨の固定法は?」と聞くと「ホッチキスで左右胸骨をとめる法とワイヤーで左右胸骨を襷がけで固定する法がある。そのどちらを選ぶかはケースバイケースだ」
    「どちらを採用したかは、レントゲンを撮った時にフイルムを見ればわかる」と答える。後日、レントゲンを撮る機会があったので、こそっと、フイルムを見るとホッチキスのようであった。


3.眼科:

(1)医師:青白きインテリ風の女医。30歳代前半か?神経質そうで、怖かった。


(2)検査:「視力検査」「眼底眼圧検査」技師が実施。医師は診断。


4.麻酔医:

 健康的な30歳前の女医。目がくるくるとした丸顔の可愛い人。
手術後目覚め時、私の体を揺さぶり「松本さん!・松本さん!」と連呼していた。目覚めると、私の目を覗き込んで「私が判りますか?」と声掛け。「麻酔の先生」と応答すると安心して、担当医とバトンタッチ。翌日夕方、ICU内二人部屋のベット上から、監視フロァーにいる麻酔医を見つけ手を振ると、手を振って「昨日、私が判りましたか?」と答えてくれる。


5.承諾書:

 万が一、事故が発生した場合に予測される傷病名・合併症を列記した承諾書に患者・家族のサインを求められる。


心臓カテーテル@

心臓カテーテルA

心臓手術

輸血

麻酔

  目次へ  TOPへ

恐怖の一夜こんな老人になりたくない 松ちゃん (H15.12.19)


 この恐怖談は心臓手術用の自己血を貯めるため、一泊二日の貯血入院した夜の出来事である。献血を過去幾度(48回)も実施している私は、採血の為の入院は必要ではない。いつも献血は職場で400ccを採っている、400cc採るぐらい容易なことです。通院で充分です。と言ったのだけれど、医師はきまりだから、他の検査も実施したいとのことで、7月1〜2日、一泊二日の入院となった。

 そもそも入院前日から変であった。自宅に病棟婦長から電話があり、1日1万円の有料個室があいているので、いかがですか?との連絡があった。(5B病棟の有料個室は日額1万円部屋1室と5千円部屋5〜6室あり)一泊二日といっても、当日10時入院で、べットに落ち着くのが11時頃。12時から昼食で午後には2回目のMRI検査と採血(貯血=400cc)があり、夕方まで病室を離れる。

 病棟では、18時夕食を食べて、あと病室で寝るだけである。翌朝9時過ぎにはベットを空けなければならない。そして10時退院となる。たった一晩寝るだけで、元気な私には、2日分2万円は贅沢すぎる。丁寧にお断りした。

 そうして入ったのが、552号室(後で判ったことだが老人部屋?)であった。部屋は4人部屋で、ベットが左右に2基ずつ廊下と平行に設置してあり、それぞれのベットはカーテンで仕切れるようになっていた。部屋の内扉と外扉の間には洗面所とトイレがあり、私のベットは入口右側(廊下側)であった。ベットの壁外にはトイレがあつた。(下図552号室参照)

 11時入室の際「松本です!今日手術用貯血のため入院しました。明日の朝退院します!」と挨拶したのだが、3人からの返答はなかった。テレビを見ている者、寝ている者、それぞれ、私の気配を感じている筈なのに・・・なんだか変だなーと感じつつ「まァー、いいか!」と寝間着に着替え、身辺整理に取り掛かった。


 同室者をそれともなく観察してみると、

  1. 右奥の窓側(私の隣り)70才代の老人。
    キツイ検査の直後か、搬送用ベットで入室した。


  2. 左奥の窓側(私と対角線上)80才代の老人。
    声が小さくドモリがち。
    昼間は奥さんが付き添っていた。
    移動は車椅子。少しアルツハイマー?なのか、
    ポータブルトイレをベットの横に置いていた。


  3. 左入口側(私の向かい)60才代後半?
    いつもテレビを熱心に観ていた。
    なんだか目つきが怖そうなおじさん。

 夕方、MRI検査が終了して、病室に戻ると、まもなくC氏が看護婦の押す車椅子で戻ってくる。どうやらリハビリ訓練を行っていたらしい。

 夕食(18時)後、C氏は自力でトイレに行く。なんだ歩けるのか!と思う。B氏は奥さんに介護されながら、ベット横のポータブルトイレで小用をたす。まもなく奥さんが帰宅した。

 そうして、テレビを観ていたが、(このテレビの音声はイヤホンだけでしか聞こえないように調整されている)20時頃、突然C氏が少し押し殺した声で怒鳴る。「リモコンをチャント扱え!」「リモコンをおまえのテレビに当てろ!」・・・なんだろうか?リモコンがどうしたと云うのだろうか?・・・C氏が再び「リモコンをおまえのテレビに当てろ!」「俺のテレビに向けるな!」「点けたり消したりするなー!」と怒鳴る。B氏が「・・ウッ・・ウッ・・」と声にならない小さな声でドモリながら、答えにならない返答をする。これは無視したのだろうか?答えられないのだろうーか?私には判断できなかった。どうやらこのテレビのリモコンは皆同じで、どのテレビにも反応させることができるらしい。B氏がリモコンを正確に扱えなくて、C氏のテレビを反応させたらしい。

 その後21時前には私のテレビのチャンネルが突然切替わる。また替わる。「エッーなんだろう!」と思ううちにテレビが消えたり点いたりする。その度にプリペードカードの残度数が減ってゆく。(このテレビはリース会社の所有で、プリペードカードで見ることができる)「エッーなんで!」「アッ!これはB氏がリモコンを操作しているのだ!」C氏の場合はB氏のテレビと一直線上だから判らぬことはないが、私は対角線上だから、直ぐには理解できなかった。どうやら私も先ほどのC氏の立場に追い込まれたようである。


 21時消灯なので、テレビを消して寝ることにした。勿論夜中にテレビが誤操作されないように、プリペードカードを引き抜くことを忘れなかった。(カードを引抜けば電源が入らない)

 いつも24時〜1時頃就寝する私はなかなか寝付けなかった。

 23時前、A氏がゴソゴソ包み紙を解く音と、ガサガサ・バリバリと食物入れの透明パックを開く音がしはじめた。そしてムシャクシャ!と物を食べる音が耳に付く。このおじさん、夕食を取らなかったのかなー?今ごろ音を出して食事をするなんて、はた迷惑この上ないと腹立たしくなる。テレビを観ているC氏もガサガサ何かを食べ始めた。この部屋の患者達はどうなっているのだ!


 23時半過ぎ、C氏はまだテレビを観ている。カーテン越のテレビの明かりが気になる。B氏がポータブルトイレで用をたす。シィーンと静まりかえっている病室内に「ジャー、ジャージャー」「ボコボコボコ」と小用がポータブルトイレのポリ容器に当たる音がする。この部屋はいったいどうなっているのだ!「B氏は病気だからしょうがない!」と自分に言い聞かせる。「明朝には帰宅できる。一晩だけだから、一晩だけの辛抱だから!」と耐えることにした。

 夜中の2時頃、B氏がベットから起きる音がし、C氏との境のカーテンが「ジャー」と開く音がした。「出口はそっちだ!」とC氏。足を引きずる音と杖の音がし、「こっちは俺のベットだ!」「来るな!」とC氏。そしてC氏の前のカーテンが「ザァー」とひき開けられた。「・・・・」B氏は無言で、C氏の諌めを無視し、C氏の領域内を通過して、図(552号室)の印方向に出てきたようである。そしてゆっくりとした足取りでトイレの前に立ち止まった。「トイレか?」と思ったが、またゆっくりと歩き初め、部屋を出ていった。ゆっくりと「カツーン」「カツーン」と杖の音が廊下に響き、ナースステーションの方向に立去った。「一人で歩けるではないか?」「介護は要らないのでは?」「なんでポータブルトイレを使用するのだ?」と疑問と怒りが生じる。しばらくして「カツーン」「カツーン」とゆっくりと杖の金属音が近づいてくる。「病棟内を歩くのであれば、何故予め杖の先の金属キャップを取り外さないのか?」「他人迷惑ではないか?」とまたまた思う。杖の金属音は私の部屋の前で、一層スローダウンし、思案しながら立ち止まったかに思えたが、非常口の方向に行過ぎて行った。これは徘徊か??

 どのぐらい時間が経ったのだろうか、「カツーン」「カツーン」と杖の音で、私は浅い眠りから目覚めた。その音はゆっくりとゆっくりと近づいてくる。そうして部屋の前で音が止んだ。躊躇しながらか?ゆっくりとした、足を引きずる音と杖の音が部屋の内に入ってきた。そして私のベットの前(印)で立ち止まった。カーテンがそろっと30〜40cm引き開けられた。私はかかわりたくなかったので目を閉じ、眠っている態をした。彼はじぃーと中の様子を覗っている。徘徊老人が覗いている・・・

 時刻は草木も眠る丑三つ時、場所は病院。私は怖くなった。病室ベットの足元で、幽霊のような老人がこちらの様子を覗っている。襲いかかられたらどうしょう!目を開けたら飛び掛ってくるのでは?目を開ける訳には行かない。私は視認できないが、老人の佇まいを探った。彼の用いる凶器は?得物は?取りあえず考えられるのは杖だ!杖で殴られたら? 昔、武士は寝込みを襲われた時、利き腕を守るため、右腕を下にして寝るのが武士のたしなみとして教えられていた。たとえ上側の左腕が切り付けられても、右腕で刀を取って逆襲することも可能であったから・・・そうだ杖で殴りつけられても、左腕で受けよう!私は逆襲できるように身構え、息を殺した。そんな私の様子を知るのか知らないのか、彼は動かない。しばらく静かな戦いが徘徊老人と私の間で繰り広げられた。

 5〜6分経ったころ、老人は私を襲うのをあきらめたのか?自分のベットではないと判断したのか?杖の音がし、彼はC氏側に移動した。「ザァー」とC氏前のカーテンの開かれる音がした。「ここは俺のベットだ!」「入るな!」「おまえはあっちだ!」とC氏。「・・・・」老人は無視を決め込んで、C氏の領域内に入り、さらにB氏C氏の境のカーテンを開け、C氏の境界内を通過して(印と逆に)自分のベットにたどり着いた。さらに5分程して、「ジャバァー、ジャバァー、ジャバァー」と遠慮のない大きな音でポータブルトイレを使用する音がする。なんだ!なんだ!今まで幾度もトイレの前を通ったではないか?なんでポータブルトイレなのだ?今までおまえはなにをしていたのだ!怒りが込み上げるが、なにせ眠たい。知らず知らずの内に眠りに就いた。

 4時前、夜勤の看護婦が巡回にくる。そしてB氏の排泄物の処置を行う。夜勤の看護婦の朝は大変忙しい。ポータブルトイレや尿瓶の処理をし、5時から採血者の採血を行い、検便・検尿等検査物の整理と尿量測定の集計をする。また体重測定は各自動ける者は自分で測定するのだが、動けぬ者や不心得者の未測定者に対して病室まで体重計を引きずりまわして行って測定をする。看護婦さんも大変だ!

 採血まであと1時間強、眠たい!寝よう!と目を閉じウトウトと浅い眠りに就いた。「ガラ、ガラ、ガラー」とブラインドを引き上げるロープ車の回転音で起こされる(ブラインドはエンドレスロープの回転で開閉する)時計は4時を少し廻ったところだ。A氏が窓にある4枚のブラインドを全て開けた「うるさいなー!」夏の夜明けは早く、薄明かりの光が部屋に立ち込める。「明るいなー!もう夜明けかー!」今とても眠たいのに、あともう少し、もう少し寝かせて欲しい。だがその後A氏はトイレに行く。「ジャー」と水洗の水の流れる音が壁越しにする。さらにA氏は洗面をはじめた。ここは病院なのだ!洗面はもう少し後にしてもらえないだろうーか?昨夜は寝れなかったと云うのに・・何故こんなに早く起床するのだ・・・・・「こんな老人達になりたくない!」と叫びたくなる、眠れぬ恐怖の一夜であった。

 私たちも還暦を経過し、これから70代80代と年輪を重ねて行くのだが、年を取ればこのような老人になるのだろうーか?背筋が冷たくなった。歳を取りたくない!病気は治る見込みはあるが、老いは着実に進む一方だ!若返ることはない!秦の始皇帝が「不老長寿の妙薬」を求めたように、この世に若返りの薬はないのだろうーか? 老いを止めることはできないが、日々鍛錬をして、気力・体力の老いを遅らせることは可能だと思う!退院したらこのような老人にならないよう努力をしようと決意した。

 今からクラスの皆様も歳を取ってから入院することもあるでしょうー。70〜80代ももうすぐそこまで来ている、その時、このような老人にならないよう、日々鍛錬を怠らないでください。


あとがき』

 心臓手術顛末記に引き続き、医師編・看護師編と述べてきましたが、このことを言いたかった為の、序文でした。このことをよく理解してもらう為の前書きでした。そして上記の決意で、私は他人に迷惑をかけず、手の掛からない患者になろうと努力した訳で、けっして助平心で若い看護婦達と接した訳でありません。ご理解ください。(完)

                                 呉 松ちゃん

  目次へ  TOPへ 次ページ