心臓手術顛末記 松ちゃん(呉) (H15.10.25)
娘の結婚(2001/06)・初孫の誕生(2002/08)・息子の結婚(2003/03)と、人並みの親の責任を果たし、4月無事還暦を迎えてヤレヤレと安堵した私だったのですが・・。
6月の初め、夕食後ウォーキングをすると、息切れが激しく何時もと違うので、受診したところ、即検査入院(国立呉病院・2週間)となりました。数多くの検査の結果、心臓に孔があいているとのことで、7月14日心臓手術となりました。8月4日退院し現在馴らし運転で遅出の早退と重役出勤をしています。手術後3ケ月も経ち随分楽になりましたが、おそるおそる(女房)の毎日でした。胸部を切開しているので、胸骨が引っ付くまで6ケ月かかるそうです。従ってゴルフは来春までお預けです。
医者が言うには、左心房と右心房との間の壁に孔があいており、肺から戻ってきた酸性化された血液が左心房から右心房に漏れている。従って右心房は全身から還ってきた血液と、左心房から漏れた血液とを併せて、肺に送り込んでいる。その結果、右心房がオーバーワークとなり肥大し、心不全をおこしている。(肺に酸性化された血液が送り込まれると、肺にも良くないらしい)
またこの孔は先天性のものだとのたまう(・・・・)。本来あかちゃんが、母親のおなかの中にいる時は、心臓は一つらしい。「オギャー!」と生まれて肺呼吸する時に真中の壁が引っ付いて、左右に分かれるらしい。この時、壁が重なって付いたり、不完全に引っ付いたりして孔が出来たりするそうだ。現在では小児科で見つけ1−2歳児で手術をするそうです。
診断結果は心房中隔欠損症・三尖弁開鎮不全症・心房細動と云うたいそうな病名をつけられ、胸部を切開して@心房中隔欠損根治術・A三尖弁形成術・B心房細動根治術の手術を行いました。
@とAは同じ個所を切るが、Bはまた別の個所を切るので、医長並びに担当医は最後まで三箇所の手術をするのに悩んだ。心臓手術をする場合、心臓を止めて人工心臓でこの間対処するのだが、この人工心臓は最大3時間しか、使うことができない。だから計画段階では2時間が限度らしい。@とAは同時にできるがBについては、やったほうがいいのか、止めたほうがいいのか手術当日朝まで、結論が出なかった。数日前手術説明が医師団からあり、私はせっかく胸を開くのだから、この際何もかもやって欲しい。また後日胸を開くのは嫌だと言っていた。医長はBまで手術するのは、時間的に・体力的(患者)にまた手術の進捗状況で難しいかもしれない。計画書が作れない。と言っていた。体力のない患者には、Bまではやらないそうである。
手術当日の朝、担当医が再度私に問うた「Bまでしましょうか、@Aで止めましょうか?」「手術中あなたに問うことが出来ないので、今一度確認します」私は「Bまでやって欲しい、胸を開いてみて結論を出してほしい。胸を開いてみて、やったほうがいいのなら、やって欲しい。やらなくてもいいと判断されたら、止めたら良い。また手術の経過をみて時間的・技術的に難しいと判断されるのなら、@Aで蓋をして下さい。どちらになっても、私は意義を申し立てしません。総て医師団にお任せします。その結果が上手く行こうと、上手く行かなくとも、運命として受け入れます。私は医師団の結論に従います」と医師団に下駄を預けた。
7月1日(手術の2週間前)に400cc。7日(手術の1週間前)に400cc計800ccの自己血を貯血して手術に臨みました。
手術は14日9時前から始まりました。15時半手術が終わり、麻酔から目覚めたのは17時35分だった。医長より手術経過が説明された。「手術は成功です。3ケ所の手術を行いました。右心も切りました。成功です。輸血は行いませんでした。無輸血手術です」「どこか痛い所はありますか?」右乳首の中央寄り下方が痛いので指差すと、左手首の点滴用チュウブより痛み止めを注射してくれた。痛みがなくなった訳ではないが、痛みが和らいだような気がした。ふと左手首の点滴パックを見上げると、横に自己血(2パック=800cc)がぶら下っていた。(この血液は夜中に点滴チュウブより私の体に戻してくれた)
手術前の担当医の説明や、麻酔医の説明では、麻酔から目覚めるのは翌朝と聞かされていた。目覚めた時、時計を見上げたら、針は5時35分を指していた。私は翌朝0535だと思い込んでいた。少し目覚めるのが早かったかな?と思ったりもした。7時半ごろより、人工呼吸器等々の諸装置が順次外されていったのだが、どうも夜が明けて朝になって行く気配が感じられなかった。ICUには窓がなく外界の様子がわらない。看護婦に「今は朝か?夜か?」と聞くのだけれど、上手く伝わらないのか、彼女がとぼけているのか、教えてもらえなかった。
手術当日の0840に病棟で安定剤(睡眠薬)を飲んでICUに降りたのだが、手術台の上に横になり、麻酔の点滴用注射針を打つ為に左手首を看護婦にあずけたところで眠ってしまった。だから注射針を刺されたことも知らない。従って麻酔薬がどれほど打たれたのか知らない。麻酔医の事前説明では、2−3パック使い、目覚めは翌朝と教えられていたのだが・・
後日、その麻酔医と廊下で出会った時に痛み止めの話から、手術当日の話になり、「松本さんは、麻酔がよく効きますネー。メスを入れられても、ビタット動かなかった。麻酔されていても痛がる人には痛み止めを打つことが多いのですが、あなたは痛み止めナシで手術を行ったようです。いつ痛み止めを?」「麻酔から目覚めたあと、痛いところはないか?と聞かれたので、そのあと、痛み止めを注射したくれた」
麻酔からの目覚めが早かったのは、麻酔がよく効くので、麻酔薬量が少なかった為だろう。また手術中、死んだように動かなかったので、執刀医のメスの手元が狂うことなく、Bまでの手術が手際よくできたのだろう。では俺は麻酔がよく効く、痛みに鈍い下等動物か?
翌日昼食より普通食が支給された。起き上がれなくて、両腕が自由にならない私に、担当の若い看護婦がスプーンで食事介護をしてくれた。なんとも云えないおもがゆさを感じつつ、ついつい鼻の下を伸ばしてしまった。ICUには患者2人に1人の看護婦がつくのだが、この日のICUには、たまたま患者数が少なく、私専用の看護婦がついていた。勿論彼女たちは3交代で入れ替わるのだが・・手術直後の夜中に付いてくれた看護婦は可愛くて、身体も腕も動かすことが出来ないでいる私の枕もとで、一晩中なにかと面倒を見てくれていた。私にはペースメーカーが装着されていて、うとうと眠りこけ、呼吸のタイミングが遅れると、顎下の警報器が「ピィー」と鳴る。彼女は「息を吸って!息を吸って!呼吸して!」と声を掛けてくれる。「水を!」「氷を!」と私の要求に答えて口に含ませてくれる。私には24時間で300ccの飲水制限があったので、彼女はその度に記録していた。若くて美人の女神のように見えた。うろ覚えの顔でもあり、再度顔を確認して彼女に、その時のお礼を言いたいのだが、勤務の都合だろう、私がICUにいる間が短いせいもあるが、その後会えないでいる。この一晩は麻酔でぐっすり眠れるはずであったが、目覚めが早かったお陰で、一晩中この呼吸警報器と1時間おきに自動計測される血圧計(モーター音+右上腕部が締め付けられる)でまんじリとしない一晩を送った。
手術翌日の午後、医長が回復力の速さに舌を巻いていた。「さすがラグビーをやっていただけのことはありますネー。すごい体力ですネー」と・・。でもこれは麻酔がよく効いた為トラブルなく手術が進行したことと、麻酔量が少なく済んだので目覚めが早く、諸装置取外しが思ったより早くて、身体のダメージが少なかったからだろうと思われる。(素人判断かも?)
予想以上に回復が進んで、医師団は難しい手術をやりこなして、患者の回復も予想以上に早いので、満面の笑みを浮かべていた。
ところが術後1週間目の22日の11時半頃に脈とび(心停止:7秒)が発生した。ぼちぼち昼飯だなぁーと椅子に座りテレビを見るともなしに見ていたら、「ゴォー」と両耳の奥から、ジェット機の飛んでくるような音が連続的に聞こえた。この音はなんだろうか?段々その音は大きくなってくる。耳鳴り?なんだろう?なんだろう?と自問するが・・・、「アッ!」これは立ち眩みでは?と思った瞬間「ドンー」と心臓が鳴って(そのような気がした)、心臓から熱い血液が全身に駆け巡った。足先の爪や手先の指の先にまで、熱い血が巡った。丁度カテーテル検査で最後に挿入菅の先から、造影剤を心臓に打つのだが、その時の状況に似ていた。
まもなく看護婦が部屋に飛び込んで来た「松本さん!どうしました!」「なにがありましたか?」「なにをしていましたか?」矢継ぎ早に問い掛けられた。「椅子に座っていたら、立ち眩みがあって、ベットに横になった」と答えた。私の身体には、ポータブルの心電図送信器が装着されていて、看護婦の詰め所のモニターで24時間監視されている。そのモニターを見た看護婦が飛び込んできたのだろう。
正午に担当医が来て「脈とび(心停止)7秒間がありました」「手術のあと、こう云うことは多々あります」とポータブルペースメーカーを装着された。このペースメーカーは、鳩尾下部に埋め込まれているリード線に結線され、1.5秒にセットされた。(1.5秒間に脈が打たなかったら、機械で強制的に打たせる)
医師団の落胆振りは、当事者である私には申し訳なく思えた。ボデイーと足回りがしっかりしている私は見た目には元気そうに見えていた。体力的な回復は早かっても、心臓内部の回復は人並みと云うところか?
そうして、術後2周間目の28日にはペースメーカー用のリード線も引き抜かれて、術後3週間目の8月4日予定より少し早めの退院の運びとなった。
医師から先天性の欠陥と聞かされ、60歳になる今日まで、激しいラグビーをし、過激な勤務生活を送ってきた時に不具合が出なかったのは何故?元気な私が今ごろになって何故?と云う疑問が残った。でも還暦とはこう云うものかもしれない。1週目をゴールし、エンジンのオーバーホールを済ませて、どこまで走り続けられるかわからぬ2周目のスタートをきれたわけである。
盲腸の手術をする程度の軽い気持ちで、臨んだ心臓手術であったが、手術自体は麻酔で眠らされているので、痛くも痒くもなかったが、術後は結構大変であった。術後の辛さもその時その時は、さだめと思い耐えることが出来たが、回復が進み少しづつ楽になってくると、不自由さ・辛さもよく耐えたものだと思う。
女房を初め、医師団・看護婦・心配してくださった多くの方々に感謝を申し上げ、心臓手術の顛末記の筆をおきます。
「ありがとう!女房殿!」
呉・松ちゃん
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