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今年の冬は各地で大雪に見舞われたので、春の到来は遅いのかと思っていたら、桜の開花予測は昨年よりは早いと言う。それでも、俗に三寒四温とはいえ、三月に入ってからも寒い日が結構続いた。人は草木の開花や芽吹きにその兆しを見るとなんとなく浮き浮きしてくるものだ。
だが、夏の暑さよりは、むしろ冬の寒さを好む犬の場合は果たしてどうか。二月下旬のある日、飼主一家は専用車に安芸を乗せ、伊豆半島まで足を伸ばした。旅行社のキャンペーンにのせられ、春の兆しを尋ねて河津の桜と曽我の梅林を訪れたのだ。
河津桜の方は、昨年時期が悪く散り残った醜い姿に落胆したものだが、今年は五分咲きの桜が見事に川の両岸に連なり結構の人出だった。安芸は、モンロー・ウォーク宜しくやや太り気味の体をゆすりながら、人込みを分けつつ平気で歩いて行く。
気づいてびっくりする人もいるが、図体や顔に似ず人懐っこいしぐさに、子供や女性は「かわいい」と寄って来てすっかり人気者になってしまった。ある女の子は、ジャーマン・シェパードという犬種が珍しいらしく、
「どこに行けば買えるの?」
と聞いてくる始末。これだけの群衆の中でもまるで自分が人間のように振る舞えるのは、平素の救助犬としての訓練の成果か。これまでの訓練にあまりいい顔をしてなかったカミサンも、この時ばかりは得意になって安芸の後をくっついている。
翌日訪れた曽我の梅林はほぼ満開であったが、肌寒く一雨来そうな天候の上、梅林もあちこちに点在していて見栄えはよくない。しかし、梅林と梅林の間には、結構空き地が多く見物客もまばらだったので、安芸にとって格好のにわか訓練場となった。安芸と飼主は、普段の訓練不足を補うべく小一時間も服従訓練の補習を行うことが出来た。
昼下がり梅林を後にしたところで、ぽつぽつと冷たい雨が降り始めた。春の兆しを感じたかどうかは分からないが、ともかく安芸二号はこの旅を十分楽しんだようである。飼主は帰宅してすぐ、庭先に記念に買った河津桜の苗木を植えた。
二月末だというのに四月並みの陽気が二,三日続いた後春一番が吹き、人も犬も浮かれ気分になりそうなある日、安芸とカミサンは思いがけない災難に会った。
「アナタこんなところに居たの、早く帰りましょうね!」
との叫び声に表に出てみると、この辺では見かけぬ中年の美しい女性が、庭先にいる安芸に
「こんな狭いところに入れられて可哀相。さあ、一緒に帰りましょうね」
と語りかけていたという。カミサンを見て、その女性は
「犬泥棒!」
と叫ぶやいきなり門扉をこじ開けて侵入しようとしてもみ合いになり、結局女性は逃走し,カミサンは全治約一ヶ月の頭部打撲傷を負う羽目となった。翌日女性は保護されたが、精神不安定ということで入院したという。
まもなく、女性の両親が見舞いと謝罪に訪れた。事情を聞くと三年前に娘が長年可愛がっていたジャーマン・シェパードを亡くし、その犬が安芸とそっくりだったので自分の愛犬と錯覚したのではないかという話。
女性は最近まで精神不安定で入退院を繰り返していたらしいが、このところの陽気で異常な行動に出たのであろうか、それにしてもとんだ災難であった。
親戚や友人からはあの気丈な人がなぜ反撃しなかったのとか、不審者に対し吠えもしない安芸は普段どんな訓練をしているのとか格好の話題となり、しばらく飼主は弁明に努めざるを得なかった。身内としては、安芸の暴走を危惧して門扉の専守防衛に努めたカミサンの行動も、闖入者を決して自分の敵とは認識しなかった安芸の判断も十分理解できるからだ。
事件直後はカミサンの怒りもなかなか収まらなかったが、相手方の事情を知るに及んでかなり同情的となったようだ。
そんな時、二つの新聞記事が飼主の目に留まった。一つは、東北大などの研究チームが、地震で倒壊しかかった建物の上層階で生存者がいるかを捜し出せる災害ロボットを開発、報道陣に公開したという記事。もう一つは、身体障害者補助犬法制定のきっかけになった十二歳の介助犬が、車椅子生活の主人宅の大好きなソファの上で息を引き取ったというもの。
最近は、ロボットの進化は目覚しく、人や動物まで無人・ロボット化に移行しつつあり、癒しのためのペット・ロボットまで登場している。近い将来、わずか十年程度の寿命の犬に代わってロボット犬が登場し、二十四時間連続の捜索活動や介助作業をしたり、ペットとして飼主の心を癒し続け、愛するものに先立たれるという哀しい思いをさせることもなくなるかも知れない。
しかし、いかに技術革新があろうとも、人が感情の動物である限り、感情と感情の触れあいや行き違いの度合いは人と動物との関係に優るものはないだろう、と飼主は思う。人が人生に生きがいや失望を感じるように、動物も生きている限り程度の差こそあれロボットでは体験できないものを感じているに違いない。
この四年、安芸との感情の行き違いを思い知らされている飼主は、むしろ愛犬の死によって気がふれるほど深い感情の交流があったであろう、その女性飼主をうらやましくさえ思った。(第30回了)
三浦の羊飼い
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