ここはローカルの草原飛行場でタワーはありません。飛行場の職員も一人だけです。これから、地上に降りた教官と無線機で交信しながらソロで飛ぶことになります。
いつもは晴天で微風なのですが、今日は雲が多く、日が照ったり陰ったりして風も強めです。機内は私一人だけになりました。初めての経験です。実は、この瞬間を長年にわたって恐れてきました。「パニックになったらどうしょうか」、「心筋梗塞、脳梗塞など急に体調不良にならならないだろうか」、「手がふるえて操作できなくなったりしないだろうか」などと、一人で飛ぶのが心配でライセンスをあきらめかけたこともありました。
操縦は大好きで特に着陸は得意だった私ですが、操縦桿を思い切り引いて失速ブザーを鳴らす着陸に凝ってから長いスランプに入っていました。この2,3日よく眠れていません。フライトスクールの格納庫にある宿舎ですから深夜の定期便の発着で目が覚めます。そのたびに不安で目が冴えます。ベッドの中でエンジンランナップやタッチアンドゴーのイメージトレーニングをしながらじっと耐えていたのです。
「無線の感度はいかがですか」と教官から無線が入りました。大きなヘッドフォンですからよく聞こえます。「感度は極めて良好です」、「そちらの感度はいかがですか」と返すと、「極めて良好」との返事です。ひと安心です。意外なことに私の声はとても落ち着いています。
「では出発してください」、「タッチアンドゴー2回ですよ」との指示です。「タッチアンドゴーを2回行います」、「出発します」と報告してからスロットルを押しました。ここは草原飛行場ですから長い草が生えています。相当エンジンをふかさないと機体は動きません。でも少し動き出したらすぐ絞って目の前の柵にぶつからないようにしなければなりません。狭いエプロンなのです。すばやく左ラダーペダルを思い切り踏み、ペダル上部を足先で押してブレーキをかけながら、エンジンを再び強くふかします。すると機体はスムースに頭を左に回してくれます。そんな難しい操作をしながらも、吹流しを見て風向風速を頭に叩き込みます。
滑走路への出口は草むらではっきりわかりません。中心から少しでも外れると排水溝に脚を取られます。真ん中の、そのまた真ん中を通ります。ずいぶん冷静な私です。さあ、草原の滑走路に出ました。この滑走路は正確に南北に走っているのでわかりやすいのです。今日は南風ですから北端に向かいます。もともとセスナは草地からの離発着ができるように作られています。大きな車輪とバネの利いた脚で、広々とした緑の草原を気持ちよく進みます。今日は一人乗りの上に追い風ですから速度が速くなりがちです。パワーをいつもより少なめにしました。機は私の操作にすなおに従ってくれています。少しうれしくなってきました。
思えば、恐ろしいほどの空腹に2年間も耐えて減量し、糖尿病、高血圧、高脂血症を克服して3日にわたる厳しい航空身体検査にパスしました。
朝4時起きで分厚い原書3冊を3年もかけて読破し、独力でマニラ市での学科試験に合格しました。
操縦は8年間もフライトシミュレータとサイパンやグアムでの体験操縦で修行を積んで来ました。通勤電車ではイメージトレーニングで夢中になり、よく乗り過ごしをしたのです。
草原を快適にタクシーする機内で色々なことが思い出されます。
滑走路末端に近づきました。パワーを落として風下になる右側に寄ってから思い切り左ラダーを踏み、エンジンを一気にふかして180°回頭し、滑走路センターにピタリと着けました。機は真南を向いています。目の前には緑を誇るようにして草原飛行場が広がっています。空には南国特有の大きい雲がポカリポカリと力強く浮かんでいます。地平線には椰子の木立が見えています。右には白い教会があります。見慣れた景色です。
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