目次
前ページ
次ページ
みなとみらい地区
横浜ランドマークタワー
JR桜木町駅から見ると「みなとみらい21」地区は、今や、横浜きっての名所。 特に、夕刻からは、ネオンが輝き、屋形船も赤や青の提灯を灯し、湾口内をゆっくりと巡っている。 年末の忘年会シーズンで大繁盛。現在は、エアコンが効き、船内は快適だそうだ。昔の様にこたつを囲み夜景を楽しみながらの宴席、そんな風情は、今は、ないかもしれない。 帆船日本丸(昭和5年建造、54年間にわたり11,500名の実習生を育てた、太平洋の白鳥とよばれた。)が横浜ランドマークタワー傍に保存係留されている(元横浜船渠第一ドック後:国指定文化財)。
帆船日本丸の全景
毎月、第二、第四日曜日、08:30〜09:45(頃)、見学オープン時間10:00のため。それまでに、帆船の金物、舷側の窓枠、階段の手すりから階段補強用の留め金まで、甲板上に見えているすべての金物を磨く作業。 用意されている、布切れ、研磨剤、ピカールを塗り磨き上げ、布切れで、最後に拭い仕上げる真鍮磨き。 友人に誘われ、行ってみた。ボランティアの人たちがコツコツと真鍮磨き、ノートが置いてあるので、そこに名前を記入、後、黙々と作業をするのみ。 こんなに沢山の帆船日本丸愛好家がいるのか、とびっくり。もちろん女性の人もいる。
帆船日本丸のスクリュープロペラ(名盤)
帆船日本丸のスクリュープロペラ
ボランティアの協力(約100名)で、年間約12回、すべての帆を広げる総帆展帆(29枚)をするそうだが、その際、女性もマストに登るそうだ。布切れとピカールをもって、船首方向に行ってみたが、すでに留め金等はすべてピカピカだった。 横浜が誕生する前は、「神奈川湊」東海道五十三次の宿場町でにぎわっていた。横浜村は、100戸ほどで、伊勢佐木町付近は入り江だった。宗閑嶋と呼ばれた、砂州、陸路は野毛山に隔たれ、神奈川の宿は船を置いていた。押送船と呼ばれる航速船が江戸前の魚を運んでいたそうだ。 約11年かけて、埋め立てが始まり(吉田新田と呼ばれていた)、現在に近い横浜の原型が神奈川湊沖に誕生したようだ。
横浜みなと博物館
横浜みなと博物館(日本丸の目の前にある)をのぞいてみた。横浜の誕生から1853年ペリー率いる4隻の軍艦、浦賀沖に来航、1854年日米和親条約を結ぶ、このころから益々横浜は、重要な役目を担ってゆく様子、18世紀末の産業革命によりヨーロッパでは、灯油、工業用の潤滑油として、鯨油の消耗が増大。 大西洋でクジラが捕れなくなると、新たに北太平洋へ、特に日本の東北地方、金華山沖、マッコウクジラが豊富な漁場だった。こんなことから次々に日本に薪、水、食料を求め、各国が開国を期待した歴史。現在、大型客船が出入港する大さん橋ができるまで、35年を要している。
日本丸メモリアルパーク
帆船日本丸見学オープン
帆船日本丸について
横浜みなと博物館では、大型船の横付け、はしけの活躍、外人居留地の発達、いろいろな横浜の歴史を知ることができた。 真鍮磨きに参加し、漠然と眺めている身の回り、地元の中に知らないことがあまりのもたくさんあると認識、外に出ることは、こんなところにも価値があるのだと再確認。 横浜を出港した外国航路、イギリス留学に向かう夏目漱石が寺田寅彦にあてた葉書の中の一句(1900年明治33年) 「秋風の一人をふくや海の上」
が展示されていました。何か、進取の気取りと不安を乗り越える気概が感じられました。 岡本